乗り放題で行こう
「青春18きっぷ」を使ったことはありますか。全国のJRの快速と普通車自由席が1日乗り放題になる切符が、5回分ついていて1万2,050円です。車を持っているとあまり使う機会はないかもしれませんが、最近ではシニアの利用も増えているそうです。かくいうわたしも、18を3回通り過ぎたにもかかわらず今でも使っています。「青春」、「18」とついていながら年齢制限を設けなかった理由は不明ですが、そのおかげです。注1
「青春18きっぷ」は、学生が長期休暇となる春・夏・冬に発売するので、秋には使えないのですが、2012年から鉄道の日がある10月にも「秋の乗り放題パス」が発売されるようになりました。こちらは連続する3日間が乗り放題になる切符です。
このような乗り放題切符のメリットは、なんと言っても安く遠くに行けることには違いありませんが、自由に何回も途中下車できることも忘れちゃいけません。野ゆき山ゆき海辺ゆき、途中下車して美味しいものを食べたりすれば楽しさ倍増。好みにピッタリの店を見つけることもあります。私にとってはそれが大事です。
ラーメン Le dessin(ル・デッサン)に出会ったのも、ちょうどそんな感じで、2年前の10月でした。
その時、途中下車したのが六合駅です。
西へ
夜明け前。御殿場駅5時26分発の御殿場線始発に乗り、かつての東海道本線を下ると、沼津で現在の東海道線に合流します。丹那トンネルが、16年にも及ぶ大難工事の末、1934年に完成してからは、東海道本線は熱海経由となり、その後に御殿場線と名を改めたのです。その昔、天下の嶮は東海道線の御殿場越えで、裾野-御殿場間の25パーミルの坂を機関車1両だけでは駆け上がることができず、補助機関車を連結していました。今は313系の電車がなめらかに走り抜けて行きます。この辺りでは、薩埵峠や田子ノ浦から見るのとは違い、間近に迫る雄大な富士山のニュアンスを楽しめます。百鬼園先生の記憶にも残って居るという、「富士山の西の山袖に流れる美しい曲線」も見て欲しいです。生憎、百鬼園先生が区間阿房列車で御殿場線を通ったとき、それは「雨と霧の奥の方」だったようです。注2
沼津からは東海道本線を西に向かいます。
午前7時前、静岡駅に到着。車両を切り離すため少し停車します。そろそろ何か食べないと我慢できない頃なのですが、攻めのメニューが嬉しい下りホームの富士見そば注3はまだ開いていないのだからしようがない。さらに西に向かうことにします。
電車の中で考えていたら、胃袋が思いだしました。朝ラーがあるではないか。日本各地に朝食にラーメンを食べる朝ラーという文化がありますが、ここ静岡でも、静岡駅より少し西にあたる県中部の志太地域では朝ラーが有名です。朝早く仕事をするお茶農家や漁師たちの腹を満たしてきたのです。温かいラーメンと冷たいラーメンがあり、温冷2杯食べるのが志太流です。注4
六合駅
静岡駅からさらに西に向かうこと24分。東海道本線の駅が44もある長~い静岡県の熱海から23番目にあたる六合駅に到着します注5。初めて途中下車した駅です。初めての駅は、ワクワクします。
この駅のエレベーターは改札内外兼用エレベーターなので、橋上にある改札へは、ホームからも地上からも同じエレベーターを使うのです。少し不思議な感じ。六合という名前も謎です。六郷じゃないのね。この世界は天地に東西南北を合わせた六極で出来ている。それを六合ともいうそうです。SFっぽい。
ちょっと不思議な気分で六合の線路沿いを西に向かい、1つ目の栃山踏切を渡りどこか長閑なゆったりした家並みの間をさらに西に向かい歩きます。大津谷川を渡り、小さな小さな監物川の短い短い監物橋を一跨ぎにこえると目の前にそのお店が現れます。徒歩約15分。
朝ラーをいただく
黒柿色の木の格子に囲われ、さりげなく只者では無い感を醸し出す佇まい。扉を開けると、自動販売機。
初めて訪れた人は、ここでまず悩むと思います。私も迷いました。危うく迷宮入りになるところでした。選択する楽しさと苦悩がここにはありますが、事前に学習しておくとスムーズです。
かつて、東京牛込の隠れ家フレンチのシェフであった大将の作るこだわりのスープは、「ロースト鴨がら&鶏がら」「岩手ほろほろ鶏」「函館ほたて」「ロースト鶏がら」「鶏がら・鰹節・煮干し」の5種類の出汁と塩、醤油、味噌の組み合わせに、味変のバター。
(初めて訪れたときはスープは4種類であったし、バターも無かった。この店の進化は、まだまだ止まらないと期待している)
更に、この地域独特の冷やしもあり、まぜそばも加わっています。具材もスープに合わせています。これらの中から、自分好みの組み合わせを選べるようになっているのです。詳細はお店のホームページで見る事ができます。
どのラーメンも美しく味わい深いのですが、出汁の味を愉しみたいならば、塩味をおすすめします。この辺りの流儀に従い、私はいつも温冷2杯いただきます。
そして、最初に食べて虜となったのは、函館ほたてだしの塩と冷たいかけラーメンです。かけラーメンというのは、具材のないラーメンのことです。
函館ほたてだしの塩は、まず見た目が美しい。濁りのない澄んだスープに、わかめの深緑が淡く透けて見える薄桃色の帆立、そして「丁寧に揃えた麺が創る柔らかい線」だ。幾重にも重層化している未完成のデッサンと言ってもいいと思う。のど越しのいい自家製の麺にはスープがよく絡む。
和風スープの冷やしはカツオの出汁がしっかり効いていて、2杯目なのにスルスルと胃袋に吸い込まれていく。一緒に出てくる揚げ玉がまた良く合うのだ。シンプルであるが雄弁。簡素ではあるが質素では無い充実感がある。
私は、昔ながらの町中華なんかでは、化学調味料の味が逆に懐かしかったりするのですが、やはり、朝食にはこの無化調で出汁の味が際立つ優しいラーメンがいい。
食後に出される鮮やかな萌黄色のお茶を飲みながら、しみじみと満たされていくのを感じます。
『幸せは和める心には一挙にしてわかる』(中原中也『無題 Ⅴ幸福』より)
のです。
更に西へ
幸せな気分で駅に戻り、また西に向かいます。お昼は彦根で途中下車かな。それはまた別のお話。注6
ラーメン ル・デッサン(Le dessin)
住所 〒427-0053 静岡県島田市御仮屋町8802-1
電話 0547-54-5536
定休日 毎週月曜・金曜(祝日時も休)及び第3日曜
営業時間 7:00~14:00
https://le-dessin.jimdofree.com/
注1「18きっぷ」が登場したのは1982年2月。当初は「青春18のびのびきっぷ」の名前で売り出され、翌年の春から「青春18きっぷ」に改められています。「青春18きっぷ」の1回分は乗車した列車が0時を過ぎて最初に停車する駅まで有効で、5人で1回分づつ使って日帰り旅行することもできます。
注2 百鬼園先生(内田百閒)は大層機嫌悪かったでしょうね。同行していたヒマラヤ山系君は何も言わないけど。その頃は、国産最大級の機関車D52が、現役で走っていたのでしょう。今は御殿場駅横に静態保存されています。富士岡の岩波のスイッチバックの話も面白いです。区間阿房列車は第一阿房列車に収録されています。
注3 静岡駅の富士見そばは、120年以上続く駅弁の老舗である東海軒が始めた駅そばのお店です。「チーズそば」や「炙り豚そば」「坦々麺」といった、凝った(?)メニューが人気です。
注4 朝ラーは、静岡県の志太地域以外でも、福島県の喜多方が有名です。あの坂内食堂でも朝ラーが食べられます。秋田県の由利本荘では、早朝に駅前市場で仕入れを終えた商店主たちが利用していたようです。そういえば、築地市場にもラーメン屋さんあります。朝の早い港の市場のラーメンが朝ラーのルーツなのかもしれません。
注5 東京から神戸に至る東海道本線は、支線を除くと全長589.5 km、普通列車の停車駅は、地図を見ながら数えてみたら155駅ありました。東京、新橋、品川、川崎、横浜、戸塚、大船、藤沢、辻堂、茅ヶ崎、平塚、大磯、二宮、国府津、鴨宮、小田原、早川、根府川、真鶴、湯河原、熱海、函南、三島、沼津、片浜、原、東田子の浦、吉原、富士、富士川、新蒲原、蒲原、由比、興津、清水、草薙、東静岡、静岡、安倍川、用宗、焼津、西焼津、藤枝、六合、島田、金谷、菊川、掛川、愛野、袋井、御厨、磐田、豊田町、天竜川、浜松、高塚、舞阪、弁天島、新居町、鷲津、新所原、二川、豊橋、西小坂井、愛知御津、三河大塚、三河三谷、蒲郡、三河塩津、三ヶ根、幸田、相見、岡崎、西岡崎、安城、三河安城、東刈谷、野田新町、刈谷、逢妻、大府、共和、南大高、大高、笠寺、熱田、金山、尾頭橋、名古屋、枇杷島、清洲、稲沢、尾張一宮、木曽川、岐阜、西岐阜、穂積、大垣、垂井、関ヶ原、柏原、近江長岡、醒ヶ井、米原、彦根、南彦根、河瀬、稲枝、能登川、安土、近江八幡、篠原、野洲、守山、栗東、草津、南草津、瀬田、石山、膳所、大津、山科、京都、西大路、桂川、向日町、長岡京、山崎、島本、高槻、摂津富田、JR総持寺、茨木、千里丘、岸辺、吹田、東淀川、新大阪、大阪、塚本、尼崎、立花、甲子園口、西宮、さくら夙川、芦屋、甲南山手、摂津本山、住吉、六甲道、摩耶、灘、三ノ宮、元町、神戸
注6 彦根には、ちゃんぽんというのがあります。長崎とは違う、滋賀県独特の食べものです。
写真と文 榊翆簾堂番頭
普段は平凡な会社員。時々、一箱古本市の主催者の一人。出店するときは、あまやかんと名乗り正体を隠している。マンガ読むのが好きで、映画見るのが好きで、食べる事はもっと好き。